JICAと海外教師研修プログラムについて

 

 

JICAとその海外教師研修プログラム

 

 

 今,これをみている人の中で,JICAを知らない人はいるだろか。JICAとは,外務省の外郭団体で「日本の政府開発援助(ODA)を一元的に行う実施機関として,開発途上国への国際協力を行って」いる機関のことである。実はこのJICAでは国際理解教育(開発教育)に取り組もうとしている国内の教員啓蒙を目的に、毎年,国内各地にある「地球ひろば」という拠点で,「海外教師研修」というプログラムを実施している。教員が,より効果的な国際理解教育を実践できるようにスキルアップをするために,様々なワークショップのスキルを学んだり,実際にJICAの支援対象となっている開発途上国で様々な施設見学,ホームスティ,体験を経験してもらうといったプログラムである。

        

 この事業は,意外と我々教員の間でも,よく知られていない。この事業自体は文科省や各都県の教育委員会の後援を受けているものの,「どういうわけか」,個々の学校や自治体によっその制度の周知徹底の仕方に温度差があるためである。ただ私の場合は運よく,昨年度埼玉県の県立高校の先生で,この研修に参加した先生を「地理屋つながり」でたまたま知っていた。そのため, そんな制度があるのであれば是非,参加したいということになり,「応募」することになった。わたしが研修応募したのは,JICAの国内拠点の一つ「市ヶ谷の地球ひろば」で企画したブータンを訪問先とする教師海外研修であった。

 なんとか書類選考をバスして,研修キップを手に入れたのは6月のはじめだった。選考されたメンバーは9人。東京都4名,長野県2名,山梨県2名,群馬県1名(私)の一都三県の教員で,校種も小学校5名,中学校1名,高等学校3名(全日制2名と定時制1名 ,公立2名と私立1名),特別支援学校1名とほぼ全校種の先生方がメンバーであった。

 8月のブータンでの実地研修に先駆けて,私たちは二回の国内研修を経験した。一回目は6月16日(日),東京都市ヶ谷のJICA市ヶ谷ビルで,開発教育についてのレクチャーやワークショップ,チームメンバー9人の融和を目的にしたアイスブレーキングなどを行った。また二回目は7月6日(土)~7月7日(日)に1泊2日で東京都の市ヶ谷,代々木で行われた。そこでは取材計画,帰国後の授業についての構想,国際理解教育のための授業スキルのレクチャー,前年の経験者から研修報告を受けた。

  

研修コースの概要

 

 

研修コースの概要

 

 

今回,私たちの研修は,パロ(Paro),ティンプー(Timphu),ワンディポダン(Wangdue Phodrang)の3つの都市を拠点にして行われた。

  • コースは,おおよそこのようなものである。 田中が作成したウェブ地図はこちらである。

  • まず「パロ」では,西岡チョルデンや,多くの農業関連施設を見学した。そしてホームスティをして一般的な農家の生活を体験した。さらにパロ教育大学を見学したり,マーケットやパロの町を歩いた。

  • またティンブーではJICA事務所やBhutan政府の機関で,全体的な教育制度や,GNHのレクチャーを受けた。そしてメメラカのゴミ処分場,病院や,タンゴ僧院と,2つの学校を訪問した。

  • そしてワンディポダンでは,山奥の村にあるガセロ小中学校を訪問した。

 

海外研修の日程について

 

 

海外研修日程について

 かくして2013年8月1日(木)~11(日)の日程で,私たちメンバー9人はブータンでの海外研修に臨んだ。行きの飛行機が,トランジット先のバンコクで6時間遅れるというアクシデントもあったが,研修日程は,ほぼ下の日程表のとおりに推移した。

8月1日 JICA事務所訪問(ティンプー)

 

 

JICA事務所訪問

 

 

(1)朝熊所長の話

朝熊所長はとても人懐こい感じの笑顔が印象的な方であった。我々が二次研修のときにかいた「取材計画」にそう内容のことを,懇切丁寧にお話いただいた。

①まずは我々に対して,高山病予防のアドバイス

ティンプーは2300~2500mほどの高地にある。最初は高山病で,夜眠れなかったり,頭がいたくなったりといった症状ができることもある。水をたくさん飲むなど予防策を講じるとよいですよとアドバイスしていただいた。

②JICAによるブータン支援事業の歴史

JICAのブータンへの支援事業については1964年に,「西岡さん」という男性が農業技術指導でこの国を訪れてから今年で,49年目となる。非常に長い歴史があるため,ブータンの国会議員もJICAに協力的姿勢である。またBhutan人一般が,日本人に対して好意的で,信頼感をよせている実態もある。国連や国際機関での議決では,ほとんど場合,日本を指示する「親日」ぶりをみせてくれている。これも先人たちの活動の積み重ねがあってこそだと教えてくださった。

③ブータンに対して,JICAの支援事業が行われることの意味

1)まずは北には山岳チベット地帯,アッサムなど治安の悪い地帯が広がり,南のインド側にはジャングルが広がっている「内陸国」で,発展・開発が難しい地域だからという理由があるとのことである。現在は,水力発電と観光で収益性が多少は高まってきているが,一人当たりのGDPは200ドルで低水準という実態があるという。

2)OECDが低開発国に分類しているためというのも理由の一つである。

3)また中華人民共和国とインドという大国に挟まれた国であり,地政上重要度が高い国であることも支援の理由の一つである。近年,民主化される形で国づくりが進められているものの,その進む方向性が注目されている国なのだという。

4)さらに世界銀行が,「汚職なども少なく,政府がよく機能している」とブータン政府を評価しているからという理由もあるという。つまり政府の人も仕事をしっかりいていて,支援・援助の受け入れ態勢ができていることがあげられるという。

④近年のブータン社会の動向

1)貧困率は低くなってきている。2000年には36%だったものが,2012年には12%となっている。「極端な貧乏人も金持ちもいない」といった状況である。

2)1987年(25年以上前)からの国の計画の中で,今後ブータンは,5年目ODAから脱却すると公言している。ただし,ブータン政府もJICAも現時点で,援助は必要ないとは考えていない。援助に依存しなくてもよくなるように「まだまだ援助が必要」というスタンスである。

3)近年のブータンでは,失業率の高さが問題となっている。ただし現在70万人の国民のうち5万人の外国人労働者がいて,彼らは未熟練労働を行っている。一方で,ブータン人はそうした未熟練労働につきたがらないのだという。失業問題には,「職の選り好みによる失業問題」という面もあるのではないかと分析されていた。なおブータン人の教師たちは,「工事現場で働きたくなかったら,勉強するんだ」と教えているという。

4)インドから首都ティンプーに米が流入してきている。

5)韓流が人気がある。

6)政権がかわったことで,政権内のポスト移動がどうなるかが注目されている。

7)インドからの物資の流入に伴って,外貨不足が起こったことから,現在,政府は外国車の輸入を禁止したり,ローンの禁止を行っている。

⑤JICAが現在ブータンで行っている主な支援事業には以下のようなものがあるとのことである。

1)農業機械を供与するなどの,農業に対して重点的な支援事業。ただやみくもに機械を供与しているわけではなく,「耕運機の後ろに取り付けるリヤカー」などは自国で作ってもらうような支援が行われている。

2)道路,橋などのインフラ建設の支援も積極的に行っている。

3)地方分権に向けた支援も行っている。

4)さらにここ数年は,環境と防災のための支援も行っている。近年の「温暖化」などの気候変動で氷河湖が融けて洪水が引き起こされるのではないかとの懸念が出ているため,洪水の警報システムなどの整備などで支援を始めている。

5)JICAでは「国の債務管理指導」という支援も行っているとのことである。

⑥これからのJICAの支援事業については,以下のようなものが望ましいと話されていた。

1)洪水防災のノウハウを教えるなど,日本の強みが生かせる協力が必要である。

2)レベルの高い技術については支援するが,自分ができることはしてもらうことが必要である。

3)現在の「ブータンブーム」の中で,日本の民間企業,大学,自治体の関係者がブータンを訪れ,オールジャパンでブータンを支援しようという動きがある。今のこの状況の中で,「民間連携の制度」「草の根協力の制度」を利用して,日本のいろんなパタートナーと協力して,支援を進めていきたい。

4)日本人は支援するだけではなく,ブータンから学ぶこともたくさんある。「ともに学ぶ協力」という考えをもち,支援事業を行っていきたい。

⑦ブータンの主要産業である農業については,以下のような課題があると話されていた。

1)貧困率が高い東部でも,農業機械の支援を行っている。同様な南部でも,灌漑事業や橋梁を建設するなどしているが,南部は治安が悪く,誘拐事件なども発生している。

2)東部では,なし,アスパラガスなどの品種改良なども行われている。

3)象,サル,シカ,シノシシなど野生動物による農作物被害が問題となっている。

⑧ブータンの工業について,「時差を利用したインドのアウトソーシングのようなことは行われていますか」とのメンバーの質問に対して,次のような回答があった。

ブータン国内にも,時差を利用したIT関連のアウトソーシングを行う企業も1社だけある。ただ近くに大きな工場でたくさんの労働力を集められるインドがあるタメ,一般的にはまったく競争にはならない状況である。

⑧ブータン人の「日本人」に対する印象はは,おおよそ以下のようなものであるという。2013年現在,ブータンの在留邦人のうち,ボランテイアで働いている人が50人,専門家が6人,事務所が8人である。

1)ブータンでは,日本人の規律正しさが好まれている。

2)日本人の「上から目線」ではなく,一緒に活動しようという姿勢が好まれている。

3)皇室外交などもあって,日本人気が高い。

⑨所長は,ブータン人の気質,志向については以下のようなものと分析しているとのことであった。

1)ブータンで人気のある職業は教員・中央官庁の人間などの公務員である。または公的な性格の強い企業や,政府系の電力会社などが人気がある。

2)ブータン人は日本人と同じように空気を読む。ただし後から,報復したりする。

3)ブータンでは年功序列を重んじるところがある。

4)ブータン人は礼儀作法に厳しい。お辞儀の仕方にもいろいろある。

5)ブータン人とネパール人は交わるが,宗教も異なるインド人とは交わらない。

(2)池上調整員の話

続いて池上調整員からは,これから我々が研修を行っていくにあたっての注意点をいただいた。

①研修にあたっての守るべきポイントは以下のような点とのことである。

1)今後,研修で関係施設を訪問する際には,JICAブータン事務所から最低1名はついていくが,通訳とは違うので,注意してほしい。

2)関係施設の見学にあたっては,各方面に無理なお願いをしている。相手に敬意を抱いて訪問していただきたたい。とくに大学は,「後期」がはじまる重要な時期である。

3)服装については,すべての公共機関でラフな恰好はさせていただきたい。ブータンでは公共機関では,民族衣装が基本となっている。 ネクタイを締めるとか,肌の露出はさけてほしい。

4)2日間のホームスティについては,受け入れについてもかなりの準備をしていただいている。かつて「逃げた人」もいるが,逃げないでほしい。また蚊に刺されるのも文化である。

5)コーディネーターの市川さんは添乗員ではない。自分の荷物は自分で管理してほしい。

②健康・体調管理,安全管理についても,アドバイスがあった。

1)移動中,用をもよおすこともあるので,早いうちにトイレットペーパーと水を入手してほしい。

2)野犬にかまれないように,集団で行動してほしい。とくに今,ブータンでは犬の去勢手術を「3000匹を目標」にやっていて,人間不信な犬もいる。

3)物事は計画どおりにいかないので,いらいらしない。とくにブータンの男性はナイフをもっているのでトラブルには気を付ける。

 

以上のような,お二人のブリーフィングを皮切りにして,われわれ研修メンバー9人のブータン研修がはじまった。

8月2日① ディンチェリン小学校訪問(ティンプー)

 

 

ディチェンチョリン小中学校(ティンプー)

 

(1)朝礼あいさつと交流会

   

2日目の最初,私たちはティンプー郊外にあるディチェンチョリン小中学校を訪問した。生徒1700人からなる大規模校である。日本でいえば,小学生から高校1年生に相当する「1年生から10年生まで」の学校である。朝礼では,まず研修メンバーの代表が生徒たち全員い前で,大変流暢な英語で挨拶をしたが,その後,私を含むチーム9人と生徒たちとの間で交流会がもたれた。それぞれ生徒たちは学年ごとに整列して,私たちを出迎えてくれたが,それを少し高台になっている所から見下ろす中では,上級生が下級生の面倒を大変よく見ていたのが印象的であった。交流会は,まず「高台の上」を利用する形で,私たち研修メンバー全員による,「ソーラン節」と「世界に一つだけの花」の歌と踊りで口火をきった。その後,「高台」から下に降りると,生徒たちは大きな輪を取り囲むように一斉に移動した。そして,私たちをその輪の片端まで連れていき,椅子に座らせて,歌と踊りで歓迎してくれた。

(2)授業参観

交流会の終わった後,私たちは授業見学の機会を与えられた。 このときメンバー9人それぞれが,好きなクラスに行っていいと言われたが,私は自分が日本で教えている生徒と年齢が近い「8年生以上の生徒が勉強する棟」に行き,授業を参観した。ここで私が参観させていただいたのは,生物と地理の授業である。

①生物の授業

10年生のあるクラスを除くと,インド人教師が生物の授業を行っていた。私ともう一人別の先生が最初に教室に入った時,全員が無ですくっと立ち上がり,われわれ見学者を出迎えてくれた。私は,今日が特別な日だからそうしているわけではなく,「習慣化しているなー」という印象を受けた。二階にあったその教室の中はとくにか狭く,薄暗く,黒板も小さく,チョークも一色しかなく,黒板消しも雑巾を丸めたようなものしかなく,お世辞にも恵まれているとは言い難かった。ただ29人の生徒は真剣に,生物の「目の働き」についての授業を受けていた。寝ているものも,私語をしているものは一人もいなかった。勉強に取り組む意欲では,正直,私の知っている「日本の高校生」は明らかに負けていると思った。生徒が使っていた教科書を見させてもらったが,かなり細かく,レベルが高いと感じた。教育省がつくっている国定教科書のようである。ただ10年生といえば,日本では「高校1年生」と同じである。はたして彼らが全てを理解しているのだろうかとの疑問も持った。また教師の授業スタイルについては,教師が生徒に質問を投げかけて,生徒一人一人がその場で「復唱」するように答えをいってという,反復学習による単語,語句の定着といった授業パターンであった。

②地理の授業

地理の授業を担当していたのは,女性のブータン人教師だった。ここでも我々は前のクラスと同様に迎え入れられた。私たち突然の見学者が座るところを確保するために,後ろの席の生徒が席をつめてくれ,また教科書まで貸してみせてくれた。席をゆずってくれた生徒は,隣の席の子と「一つの椅子」を二人ですわり,教科書もその子の教科書を見せてもらっていた。自分の専門科目の授業だったので,大変興味深く授業をみていたが,ブータン人教師が授業で扱っていた内容は,高山気候地域であるブータンが3つの気温帯に分かれるんだよということだった。よく聞いていると,それぞれのエリアについて生徒に降水量○○mmのを答えさせて,それを全体で復唱させてという授業であった。

ブータンの10年生の教科書は,やはり教育省が作った国定教科書で,「ブータン地誌」であったが,内容的に系統地理を盛り込んだ,かなりレベルの高いものであると感じた。ブータンを対象地域としながらも,U字谷,都市問題など盛り込んだ内容だった。

(3)山根隊員の授業見学

次の授業時間,私た9人は全員,青年海外協力隊でこの学校に派遣されている山根隊員の体育の授業の見学をした。チームリーダーのKさんが中心となり,ソーラン節を子供たちに教えたり,研修チームVS小学生チームのドッヂボール対決をしたり,大変楽しい交流の時間となった。ドッジボールをしているとものすごく息が切れたが,考えてみたらここは高度2500mほどの高地だったのである。

   

最後は日本語で子供たちに「ありがとうございました」と礼を言われた。終始笑顔で,何にでも一生懸命な子供たちをみていて,逆にこちらが元気をもらったような感慨をもった。

(4)職員とのディスカッション

その後,校長室では,研修メンバーと職員とのディスカッションが行われた。ここでは校長,複数人の副校長をはじめとした管理職と手の空いている職員が対応してくれた。我々の質問に対して,一つ一つ答えるインタビュー形式で行われたが,話していただいた内容は以下のようなものである。

①学校生活については,朝礼後の瞑想があるなど,少し日本とは違うものだった。

・学校では,8科目の授業を行っているが,生徒たちには,今日は英語,明日は別の科目といったように,毎日宿題が課されている。

・毎日,朝礼のあとには,meditationと呼ぶ瞑想の時間がある。その後,授業となる。

②ここでは,生徒に思考力をつける授業をやっているとのことであった。

・授業の中には,低学年の段階から積極的に,グループディスカッションのような活動を取り入れている。

・授業だけではなく,世界のニュース,ブータンの政治の動き(民主化されて5年とか,選挙のこととか)などについても考えさせることをしている。

③子供たちの通学圏について質問すると,比較的この学校の生徒たちは近隣から通っている,めぐまれた者がおおいとのことであった。

・この学校では,農村部と異なり,ティンプー市内から通っている生徒が多い。

④この学校の特殊な条件としては,次のようなことがあるとお話をいただいた。

・この学校の特殊な条件は,1700人もの生徒がいるということである。「Happiness」を学ぶ特別クラスが1クラスだけある。そこでは,どのような科目を教えても,最後,「GNHが大事なんだよ」という結論になるような授業を行っている。

・大きい子と小さい子が,「親戚のような関係のペア」を作ることになっている。大きい子は小さい子の面倒をみて,小さい子は大きい子をリスペクトしてという関係になっている。

(5)屋外ランチ

授業参観,職員とのディスカッションなど予定がすべて終了したあとは,ランチタイムであった。研修メンバーそれぞれ昼食はおのおの外に出たり,教室へ行き,子供たちとランチをともにした。私は学校の外にある芝生の小高い丘までいき,子供たちの輪にはいっていき,昼食をとった。

子供たちは自分のランチボックスを持参していたが,その中をのぞくと,エマダッツィ(青唐辛子のチーズ和え)や赤米,白米のご飯などであった。私たちは,JICA職員によって配られた弁当だったが,子供たちからエマダッツィをおすそ分けしてもらって食べながら,これもまた楽しいランチタイムを過ごした。私はこの時,午前中の「反復学習授業」がほんとうに楽しいのか私は疑問に感じていたので,下の写真の一番手前の子供に「勉強はすきですか」という質問をした。そうしたら,まっすぐに見つめられて「yes」と即答された。私は,ここでも「日本の高校生」を思い出さずにはいられなかった。日本の高校生は,まっすぐ胸をはって「勉強がすきだ」なんていえるだろうか。

途中,雨季特有のにわか雨がふり,ランチは中断したが,近くの小屋の軒下で雨宿りしている時に,腕や手の甲にサインをしてくれと,小さな子供たちに人気アイドルさながらサイン攻めにあった。私は,もっていたボールペンで,人生はじめての「サイン」をした。

 

8月2日② ブータン教育省挨拶(ティンプー)

 

 

ブータン教育省(ティンプー)への挨拶

 

 

 

(1)学校教育局局長のお話

①あいさつ

・ブータン氏と日本とのかかわりは,4代国王が日本の京都大学にいた1950年代,ダショー西岡がブータンに農業技術支援で訪れた1960年代までさかのぼれる。みなさんが,この国に興味をもってくれると大変うれしいです。 今回,研修でこられた先生方はいろんな校種の先生方がいるのですね。特別支援の先生もおられるとのことですが,ブータンでも特別支援(special education)の学校が今は8校ですが,5年後は増やす予定となっています。

②ブータンの教育システム,学制について

・ブータンの教育システムは「GNHの方向性」がベースである。

・ブータンの学制は日本のそれとは大きくことなる。ppと呼ばれる7年間を過ごしたあと(日本の小学生・中学1年に相当),secondlyという4年間(日本の中学2,3年と高校1年に相当)を過ごし,そのあと大学が4年間という学制になっている。大学をでたあとに専門学校に入るものもいる。

・少し前にppの前に,幼稚園のようなものもあったが,今後は,国内に3~4歳を対象として「学校に通う準備をするための150のセンター」を作る計画である。

③進級の難しさについて

・secondlyの10年から11年に進級するとき,11年から12年に進級する時,12年から大学に進学するときに試験を行う。その試験は大変難しいが,そのために生徒たちは前々から準備をしている。 そこで優秀な成績があげられた子は,国費でスリランカなどの外国に行くことができる。次のレベルの子は国内の大学で勉強することになる。さらに次のレベルでは金があるとインド,タイ,アメリカ,日本などの大学に行くことになる。インドや日本のサッカーの学校に行く子供たちもいる。

④学校で教える科目

・3年生まではゾンカ語,その後は英語によって各科目の授業を受けることになっている。3年ではESD,環境について,4-5年ではsocial study,6-7年ではgeography,history,science,8-9年ではscienceとeconomyに分かれての履修となる。

⑤教師に求められるもの

・教師がGNHを教えられるようにする研修は2010年からはじまったばかりである。 各科目の授業の中で,ストーリーを挿入し,教訓を生徒に与えられるような力が求められている。

・教師に必要なものはマナーである。先生がしっかりしていなければならない。「時間を守る事」など先生本人から習うことが多い。

⑥英語教育とゾンカ語教育の両立について

・現在,3年生以上では英語で,すべての科目の授業を行っているが,英語教育の導入は1914年からはじまったものである。まず1914年には1校,1915年には2校,1961年にも11 校のみが英語による授業を行っていた。しかし当時,インドとの関係があったためヒンディ語を教えるような学校はあった。ただその後,ゾンカ語だけでは国際交流ができないということになり,1950年三代国王のときにヒンディ語教育をやめて,英語を全校で教えるようになった。

⑦今後の課題

・音楽classがないので,今後,JICAのサポートなどを受けながら設置をすすめていきたい。

・GNHを生徒に教えるのが,最終的な学校の目標である。ブータン人の心にのこるような教育を行えるようにしてしていきたい。

・現在,農村部の子供たちの中には1時間も歩って学校に通っているものもいる。学校の寮に泊まっているものもいる。農村に暮らす子供たちの教育をなんとかしていきたい。

8月2日③ ブータン内務文化省地方行政局訪問(ティンプー)

 

 

ブータン内務文化省地方行政局訪問

 

 

(1)ドジノル地方行政局局長のあいさつ・お話

・私は,1986年にはじめていって以来,これまで3回日本に行きました。昨年2012年に行きました。わたしはやさしい日本が大好きです。今は(モンスーンの時期で),土砂崩れの心配などもあって,あまりいい時期ではありませんが,ティンプーから外へ出るときは十分気を付けてください。

・ブータンには,20のゾンカ区と呼ばれる 県があります。そしてその20県の中には,205の行政区があります。この地方行政局はそれを管轄しているデパートメントです。

・ブータンは山また山の国で,100数十m~7,000mまでの標高帯があります。そのため壊れやすいエコーシステムをもった国であるといえます。動物は1400種(うち600種は小鳥です),植物は6500種と世界有数の生物多様性にとんだ君となっています。

・ブータンはまた地域によって,様々な服装,スカーフの違いがあります。民族衣装は男性はゴ,女性はキラで,スカーフの色も立場によって違います。まず王は黄色,大臣はオレンジ,国会議員は一般的にはブルーですが,貢献度が高い人は赤色です。裁判官は緑色,県知事は赤地の真ん中に白のストライプ,205の地区長は白地に赤のストライプ,政府高官・次官は白スカーフもいるが帯刀も許されている。

・ブータン人は主食として米を食べている。とうがらしも沢山だべている。スパイスはなく,とうがらしと塩だけである。豚肉,唐辛子,大根などを煮込んでつくるのが代表的な料理である。とくにチーズ唐辛子をあえた「エマダッッイ」はブターン人であれば誰でも好物である。また基本,肉を食べている。

・ブータン人は,親切で,やさしくて,冗談好きである。

・ 来訪した客へのもてなしとして,西ブータンではバターテイが一般的である。また東ブータンでは地酒のアラを出すのが一般的である。アラは,客が少し呑むと,いっぱいになるようについでくれる。2杯目をことわると失礼といわれている。

(2)津川智明専門家のお話

・私は30年前に,はじめて国連ボランティアでブータンに来た。1983年家族とともにブータンに移り住んだ。1989年にはブータン当分の工業専門学校で土木支援を行った。

・ブータンでは1999年にテレビが解禁となって社会の様子が大きく変わった。今,韓国のファッションを真似する若者が増えている。またNHKワールドも見られるようになった。そして2008年にブータンは立憲君主制に移行し,政治体制も変わった。

・1990年に南部では,1958年以前からブータンにいた者以外を追放したことから,「王政を廃止しろ」といったデモが起こった。

・日本と同じように,ブータンには貧しさはあっても,貧困はない。

・現在,日本はブータンに多くの技術協力をしているが,その見返りに得ているものも多い。まずは,「いつかはブータンに助けられるかも」といったお互い様という考え,困っている人や国があれば助けるという考え,何を,どのように,いつ,どの程度協力するのかについての慎重な判断をする力,援助をやりすぎは問題であるという考え,人づくりの難しさ,インフラ整備の協力は必ずしも悪くないという考え,必要なところは,必要な時に国連に協力する柔軟さを日本は得ていると思う。If I hear it I will forget it,If I see it I will remember it,If I do it I will understand it,If find it I will use it という言葉(レイチェル=カーソンの言葉)がありますが,私は,このブータンにきて,この言葉の意味をよく考えるようになったと思う。

・ブータンには沢山の僧侶がいる。ブータンになぜ,このように僧侶が必要なのかといえば,それは身近に僧侶がいることで,人々が「生き方」を学べるからである。贅沢な生活ではなく,質素な生活にあこがれるという考えを僧侶から学んだ人々は,欲望にブーレーキをかけることができる。ブータン人は,何をするときも瞑想します。それは僧が,「瞑想をすると永遠の幸せになれる」と教えているためである。

・研修中,みなさんには「ケワダチ」料理を作ってもらう。ジャガイモと唐辛子をあえたものである。次回,ジャガイモを1kg,玉ねぎを1kg,唐辛子の青くて大きいのを500g,水を用意してきてほしい。水は町の八百屋あたりで買えるはずである。塩・チーズ・油は,私の方で用意しておく。

 

8月3日① パロ王立病院(JDWNR病院)訪問(パロ)

 

 

パロ王立病院(JDWNR病院)訪問

 

 

ブータンでは,水力発電による電機のインドへの売電による収入があり,医療費も無料である。そのブータンの中でも大きな総合病院のパロ王立病院に訪問した。

 

(1)青年海外協力隊員・富川さんの話(人工透析の部署に配属)

 

・日本では,腎臓に対する人工透析は40年前から行っている。しかしブータンでは1998年からの実施でまだ最近のことである。ブータンでは生活習慣病としての高血圧・糖尿病が多いが,そこから腎不全になる人もいる。検査が十分ではないので,原因は不明である。

・ブータンでの人工透析は,8:00~14:10,13:00~19:00,17:30~23:00で三交替のシフトで行われている。

・医療器具は,日本とくらべてかなり貧弱な状態である。人工透析の器具は,同じ患者であれば,何度も洗って使い続けることになっている。また患者にガーゼを使うときも,スタッフがハサミで一つ一つ切ってつくったものを,普通のテープで固定して使うなど,衛生面での問題もある。

(2)青年海外協力隊員・伊藤さんの話

 

・私は,月,水,金と,糖尿病患者に「集団糖尿病教室」といった栄養指導を行っている。火,木は外来患者の血圧,体重をはかっている。

・右上の写真のような「集団糖尿病教室」については,ゾンカ語,東部の言葉,ネパリの言葉の3言語使っておこなっている。内容は,糖尿病とは何か,食育,運動,低血糖の話などである。

・現在ブータンには,9人の栄養士がいるが,うち4人がこの病院に集まっている。

・この病院の患者で一番多いのは,「栄養欠乏」などの症状をもつものである。しかし一方で,車にのっている人が多いことを背景に,肥満,糖尿病の患者も多い。さらにブータンでは,ビンロウや唐辛子など辛い物が好まれる。そのため口腔がん,胃がんも多い。

・糖尿病が多いのはティンプーなど都市部であるが,地方についてはもともと病院に行かない人が多い。病人が出ると「プジャ」というお祈りをしてすまし,なくなって輪廻転生をするから悲しまないということがある。そのため,実際には病気の人がいても実態がわからないというのが実情である。

・地方には,貧困からくる栄養失調がある。

(3)青年海外協力隊員・土屋さんの話(ICUに配属)

・この王立病院では350床のうち,稼働しているのが250床である。

・現在いる現地医師はインド,バングラデシュなどに留学し医師になったものである。来年度,ブータンでは医学部をおく大学が創設されることになっている。

 

8月3日② パロ市内散策(パロ)

 

 

パロ市内散策

 

 

病院に訪問したあとは,パロ市内で昼食をとり,その後市内を散策した。昼食をとったレストランの裏手にはパロ川という川が流れていたが,ここでは現地でお世話になったペマさんというガイドから,数年前に起こった氷河湖決壊洪水(GLOF)によってこのパロ市内に被害が出たことから,JICAなどの協力によって護岸工事がおこなわれているという話を伺った。そうした情報を知らなければただののどかな平和的な景観にすぎないのだが,私は,ここでブータンが氷河湖決壊洪水という自然災害のリスクを抱える国なのだということを知り,驚いた。

昼食を食べ終わった後,レストランから町中に行く途中,路地裏を通った時に同じ草が沢山生えているのをみたが,ガイドのペマさんによると,大麻(マリファナ)だという。以降,注意して雑草をみているとそこいらじゅうに大麻が生えていることに気づいた。 農村部ではブタの餌として使うらしいが,「普通の雑草」とのことだった。ただし最近若者の中ではマリファナを吸うものがでてきていて問題になっているという話も聞いた。

パロの市内は以外と,整然とした観光地のような感じだった。メインルートに沿って沢山の土産物屋が立ち並んでいた。日本でいえば軽井沢のような高原の避暑地のような漢字のところである。土産物屋にまぎれて,中には,男性がクルというブータン式ダーツを手作りで作っているお店,機織りするお店,一般的な生活用品を販売するgeneral shopというお店などがあった。

  

 

車道を歩っていると車の中に、面白いものを見つけた。太陽電池で自動的に回る「ソーラー・マニ車」である。これが今、ブータンでは流行しているのだという。土産物屋でみたが、案外値段が高かった。

私はここで男性の民族衣装である「ゴ」を購入した。

8月3日③ ペマさん宅へのホームスティ(パロ)

 

 

ペマ(Pema Dorji)さん宅へのホームステイ

 

 

パロでは,農業機会センターに勤務されているペマさんのお宅にホームスティさせていただいた。ペマさんは,ブータンに日本の農業技術を紹介したことで知られる「ダショー・西岡」のもとで,長年働いてきた人だった。家は,パロ川をわたった所にある山の斜面にあり,赤米の混じる田んぼのあぜ道を歩った所にあった。ペマさんの家には、険しいあぜ道をひたすら歩って、牛の管理用の柵をのりこえ、雑草を踏みしだいていかないとたどりつけないような所にあった。

家は,木造の総二階建の家であった。居間は,梯子をのぼった所にある二階にあった。6畳程の広さの居間には,国王の写真や家族の写真が飾られていた。我々はここで,コーヒーとお菓子をふるまわれ,ホームステイする家ごとに分かれた。

 

私と二人の男性教員がお世話になったのは,ペマさんの家であった。ガイドのペマさんと同じ「ペマ」であるが,ブータンでは「ペマ(蓮の花の意)」という名前は多いのだとのことであった。年齢は私が49だが48とのことだったが大変気さくな人だった。家について最初に振舞われたのは,すごくしょっぱいバターティーと,お米でつくったと思われるお菓子である。夜になってからはアラというブータン焼酎も馳走してくれた。

  

ペマさんは,とても優しい人で,英語がまったくしゃべれない私にも気さくに話しかけてくれたり,退屈しないように,ブータンの本を見せてくれたり,日本で放映された「世界ふしぎ発見のブータン編」のDVDをみせてくれた。 食事については,ペマさんが経営しているドミトリーに泊まっている大学生のお嬢さんと,ペマさんの奥さん,息子さんたちと一緒にとったが,下の写真のような鍋にはいったおかずを囲んで,それを自分の皿にのっている米とからめ食べた。写真の左下はチーズと唐辛子を和えたブータンでは定番のおかず「エマダッッイ」,右下はチーズと唐辛子,豚肉を和えたおかずである。唐辛子が大量に入っていたが,不思議と空さは感じず,おいしかった。

 

食事も終わって夜がふけてきた頃になってペマさんは,自分が作ったという模型を私に指し示しながら,夢を語り始めた。その話によれば,このパロで模型のよう石風呂つきの宿泊使節を作って,日本人観光客を招き,それによって生計を立てたいのだとのことであった。いま高校3年生で学校に通っている娘にそのガイドの仕事をさせるなどして,親族経営でこの施設を経営していきたいとの夢だった。その夢を聞きながらホームスティの1日目が終わった。ホームステイした3人が寝床として通されたのは,6畳程の仏間であった。

 

8月4日① パロの市場散策(パロ)

 

 

パロの市場散策

 

 

朝早く、パロの市場を参加メンバー全員で散策した。市場は、青空市場そのものである。

市場の中では実にいろいろなものが売られている。パイナップルやドリアンの仲間のような熱帯産の果物,桃, 米,バナナの花,山菜,唐辛子,ナス,インゲン,長ネギ,ジャガイモ,ヤクのチーズ,卵,各家庭の必須品である「お香」,服,野菜の種,カマ,カゴ,造花などてある。果物などはインドからの輸入品だという。

ブータンはチベット仏教が盛んな国で,各家庭に仏壇があるぐらいなので、お香をとつくるときの,様々な種類のもぐさなどの配合は各家庭で違っているとのことで,お香の材料になる数種類のもぐさのようなものを,自分の家の配合にあった量ずつ買っていく人たちが多かった。またチベット仏教では,仏様に生花をいけることはしないため,造花が売られていたのも印象的であった。また宗教的な理由で,生魚をたべてはいけないとのことで,干し魚が売られていたのが印象的であった。

なお市場の柵の外には,衣服やバッグを売る店や,床屋,肉屋もあった。

 

8月4日② 西岡チョルデン・農業技術センター訪問(パロ)

 

 

西岡チョルデン・農業機械化センター訪問

 

 

市場のあとは,ペマさんの案内で,パロの中でも,山地寄りの西岡チョルデン(仏塔)とダショー西岡の建てた農業機械化センターを訪問した。まず西岡チョルデンは,ダショー西岡が余生をかけたパロの集落を見下ろすような小高い丘の上にあった。近くには大きなマニ車もあった。

  

農業機械化センターはペマさんの職場でもあり,ペマさんに案内していただいた。センターに入ってまず目に入ってきたのは,建物の前面に複数ならぶトラクターで牽引する後部の荷物置きの部分である。パロではトラクターは,日本のクボタなどの製品を使っているとのことだが,これは自国製であるとのことだった。付近を見回すと,日本の「シバウラ」との銘が入ったコンバインも見つかった。

農業機械化センターの中では,ダショー西岡が使っていたオフィスや開設準備中の西岡氏の記念館を見学し,様々な資料を閲覧した。

 

 

8月4日③ ぺマさん家族と裏山までピクニック(パロ)

 

 

ぺマさん家族と裏山までピクニック

 

 

昼、ホームスティしているペマさんの家の裏山に,ペマさんの兄弟家族の車でいき,日本からの参加者メンバー全員でピクニックをした。山の上にいき,ブルーシートを広げ,その上でペマさんの奥さんと娘,ペマさんの兄弟とお母さんとでランチを食べたり,みんなでクルを投げて遊び楽しいときを過ごした。

   

 帰り道,お婆さん(ペマさんのお母さん)の体を気遣いながらお孫さんが手を引きながら,ゆっくり坂道を歩いていく所が印象的だった。     

 

8月4日④ ぺマさん宅へのホームスティ最後の夜(パロ)

 

 

ペマさん宅最後の夜

 

 

ペマさんの家につくと、「ダショー・西岡」のビデオを再びVHSデッキでみせていただいた。2009年1月の「世界ふしぎ発見」である。ビデオの中には、若かりし頃のペマさんがいた。

 

8月5日① ペマさんと別れの朝(パロ)

 

 

ペマさんと別れの朝

 

 

翌朝,少し早く起きて,寝室として利用させていただいた仏間をよく見回して写真をとらせていただいた。ペマさんから,ブータンには,すべての家に同じような仏間があると教えていただいたが,広いだけでなく,仏像,仏画,大きな太鼓,マニ車をはじめ様々な仏具がまるでお寺のように整然とならべられている。あらためてブータンの人々が,チベット仏教の中で生活しているのだということを思い知らされた。

         

朝食後.ペマさん夫婦にお礼をいい,ホームステイを終わらせた。

 

8月5日② パロ教育大学訪問(パロ)

 

 

パロ教育大学訪問

 

 

パロ教育大学は首都ティンプーから54km離れたところにある王立大学の一つで小学校教員の養成のための大学である。敷地はそれほど広くはないが,木造の伝統的な作りになっていて,落ち着いた感じの校舎であった。 3~7月は春学期,8月~11月は秋学期と2学期制で,教員60名,スタッフ40名の学校である。外国人講師としては案内をしてしてくださったJICAシニアの中尾拓久さん一人だけである。中尾さんのお話によると,大学では資金や人材の不足から,化学などの科目が理論優先で実技・演習・実験など「実践」が不足するなどの課題があることや,基礎・基本的な学習支援の不足があると伺った。教えることが,線にはならず点で終る事が多いとのことだった。また大学の先生の大半が,アメリカ・オーストラリア・タイ・インドなどで勉強している人達で,地元の小学校とのパイプをもたないため,小学校との連携がはかられないなどの問題もあるとのことだった。 大学では施設内の見学をせていただき,図書館やICTルームをみせていただいたり,授業中にお邪魔して,学生さんと話をしたり貴重な経験をすることができた。また大学での昼食は給食になっているが,昼食を中庭で配膳している様子などをみることができた。

 

8月5日③ 国立ポストハーベストセンター訪問(パロ)

 

 

国立バストハーベストセンター

 

 

ポストハーベストセンターは,農産物の貯蔵・加工用・集荷用の機械をくって農家に普及させたり,フリーズドライやジャム,干し肉などの食品加工を行ったりする施設である。見学したパロのセンターは,ブータン国内に3あるあるものの一つである。ダショー西岡の遺産である実験農場の跡地にある。施設の上の丘にはチョルデンなどがある。もともと農家が生産した農産物の販路を広げて,農家の収入を増やす目的でつくられた施設である。施設では,工場施設の見学をせていただいたが,フリーズドライをつくる機械の説明を丁寧にしていただいた。

 

8月6日① ガセロ小中学校訪問・現地で地理の授業(ワンデュポダン)

 

 

ガセロ小中学校訪問・現地で地理の授業(ワンデュポダン)

 

 

プナカの南に位置する標高は1,350mの村・ワンデュポダンでは,山奥のガセロ小中学校を訪問した。ガセロ小中学校は466人の児童が在籍する山奥の学校である。以前は250人が寮で生活していたが.3年前に寮が2011年の地震で壊れたことで寮生たちは訪問当時は,HRに泊まったり,敷地内に設置されたUnicefの4つのテントで生活していた(地震前に8つあったもののうち,老朽化で地震によってだめになったため使えたものは4つだけだったのこと)。新しい寮は来年には完成するため来年にはこの問題は解消れるのではとのことだった。当面の最も大きな問題はこの被災した寮への対応とのことだった。

この学校では,山間の貧しい地域のため,児童の食事をどうするのかも一つの課題である。7年生以上の寮生に対しては朝・昼の昼食代として1人700ブターンニュルタムが国から補助され,6年生以下の児童全員にはUnicef・WFPが,米・ジャガイモ・チャナ(豆)・ダル(豆)などの食材をすべてサポートしてくれるのだというが,給食を調理するのは,子ども達の保護者である。私たちも子ども達とその給食を食べさせていただいたが,内容は近くの農家に寄付したてもらった小さなリンゴ2個と,保護者が調理したスープとエマダツィだった。正直,あまり栄養価が高いとはいえない食事であるが,これが子供たちを支えている。こうした学校給食はガセロの保護者からは大変感謝れているという。

またこの学校では,研修メンバーが全員,一人一人英語で短い授業を行った。私も日本からもっていった地図を使って,生徒に「世界の人口やブータンの地図上の位置を答えさせていく」授業を行った。

生物,国語など,いくつかの授業も参観させていただいだが,やはり私が一番興味深く見させていただいたのは「ブータンの地理」を扱った授業であった。授業中子どもが使っている教科書を興味深くみせてもらった。ブータンの気温や降水分布に対応して,国内各地の植生,農業,生活の様子がことなることをよくまとめてある教科書だった。最後,学校を後にするときに全員で校長先生に挨拶をする場面があって,その時,ブータンの地理の授業に興味があることを伝えたところ,はからずも帰り際に「地理の教科書」をいただくことができた。

ここは田舎ーの学校で,震災の傷跡が残っていたり,食事や生活環境には恵まれていない子ども達が多かったが,印象としては,素朴でシャイな印象の子ども達が多かった。校長先生も子ども達のことを「内気だよ」といっていた。

 

8月7日① メメラカゴミ処理場訪問(ワンデュポダン)

 

 

メメラカゴミ処理場訪問

 

 

前日はティンプー南東部にあるワンデュポダン(Wzndi Podan)という地区の山中のホテルに宿泊したが,この日の午前は同じ地区のメメラカゴミ処理場を訪れた。ここではシニア海外ボランティア(SV)の柏木さんが案内をしてくださった。

メメラカゴミ処理場は,近年人口増加を背景として首都ティンプーで大量に廃棄されるようになっている生活ゴミを処理するための公営施設である。町の各所におかれたボックスタイプ(多くの野犬がいるため)のコンテナのゴミがここに集められるが,生ごみ,空き缶,プラゴミなどが混在したものがここに集まるが,それを民間の事業者がトラックでやってきて空き缶など金になりそうなものを集めてもっていき,さらにそこからここの職員がコンポストで販売用の堆肥にするために生ごみだけを手作業で拾い出し,のこりをパワーショベルで山中に埋めていく。処理場の中には300頭ともいわれる沢山の野犬がいて,作業している人のまわりを徘徊してめぼしいものをあってまわっており,地面には沢山のウジ虫,空中には沢山の蠅がとびかっている,そんな場所だった。

ここは山中の森林を切り開いてつくった処理場だが,既にゴミを埋め立てるスペースは飽和状態となりはじめており,ゴミを埋設していく場所はあと数年で満杯になるだろうとのことだった。また集積場から少しずつ染みだした汚水は処理場下部の貯水槽にためられていたが,すでにそこから汚水は溢れ出し,処理場下の道路を伝って流れていた。これらの点から,この場所で今のような形の処理場を拡張していくことは周辺環境への影響を考えると厳しいのだろとうなと考えた。なお以前はインドによって寄付されたゴミの焼却施設が使えたが,現在はそれが故障してしまい,その代替施設の建設費用が捻出できないため,焼却方式によるゴミ処理は現状ではできないのだという。

 

8月7日② ティンプー市街地の自由散策(ティンプー)

 

 

ティンプー市街地の自由散策

 

 

この日の午後は,ティンプー市街地の散策をした。ティンプーはブータンの首都ではあるが,人口10万人強ほどの小都市である。ティンプー川に沿って南北に細長く伸びるノルジン・ラムが,メインストリートとなっている。タシチョ・ゾンや官公庁街,商店街などの幾つかの地区に分かれるが,私は主に商店街付近を散策した。商店街には洋服屋や土産物店,生活用品店など沢山の商店があった。コンビニのようなものも一軒だけあった。はじめてみる商店街の印象は,比較的整然としていてすっきりした印象であった。町中を歩っているのは若い男性が多いが,カジュアルな服装で歩く人,学校帰りで民族衣装の制服を着ている子どもを沢山みかけた。商店街の前を走る道路では車が行き交いしているが,警察官が手信号で車の往来を整理していた。

市街地郊外には公共施設が幾つか建っていたが,その中では併設されているブータン中央郵便局とプータン・ナショナルバンクの正面玄関に赤い大きな円のマークがあったのが私にとっては最も印象的だった。郵便局では珍ししい切手が買えるとのことで,多くの観光客がやってくる観光名所にもなっているとのことである。

商店街を歩っていると,町のここかしこにブータンで人気があるという韓流スターのポスターがあった。

また町中の商店街からはずれた脇道には,仏具や民族衣装を売る店,米など生活品を売る店もあった。ティンプーで宿泊したホテルの近くにはスイス・ベーカリーというブータンで最も古いと言われるパン屋もあった。

また市街地をあるっている中で,商店街の降りたシャッターの下で座り込むホームレスがいた。メインストリートからはずれた所には,郊外からティンプーに入ってきた人々が暮らしていると思われる仮設の家も幾つかみられた。ある人に聞いた話では,仮設の家については,河川敷などに外国人労働者が作っているものも多いのだということだった。またブータンでは,嗜好品としてドマを噛む人が多い。インドや東南アジア,台湾などでもそれを嗜好品とする人も多いが,要するに合法ハーブである。胡椒科のキンマの葉に,生石灰のペーストとともにビンロウという木の実を挟んだものである。覚醒作用があると言われるが,ドマを噛んでいると赤いよだれがでてくるため,一般的に吐き出すことが多い。町のあちこちには,その赤いよだれを吐き出した跡があった。さらに道路脇を流れる水路は大半がゴミが浮かび,水はよどんでいた。こうしたことは,ティンプーの人口急増にともなう課題の表れなのかなと考えた。

 

8月7日③ 津川専門家の自宅訪問(ティンプー)

 

 

津川専門家の自宅訪問

 

 

この日の夜,教師海外研修のメンバー全員で,ティンプーの市街地にあるJICA専門家・津川智明さん宅(2015年から2018年ブータン派遣.2019年に帰国)を訪ねて,お話を伺ったり,懇親をした。津川さんは,住民が参加する地域づくりや,行政とコミュニティの結びつきを強める仕組みづくりに尽力されていた方だった。

津川さんからは,日本では「GNHというプラスの情報」ばかりが流れている。ただブータンでは,ゾンカ・ネパリ・チベット系インド人という多民族が介在しているのにもかかわらず,中国・インドといった領土拡大の思惑をかかえた二つの大国に挟まれていることを背景として,国土を守るために「純血性」をもたざるをえず,ネパリを排斥して難民問題を発生させてしまっているという課題もかかえている。ただそれを批判的にみることは簡単であるが,それが大国に挟まれている中で,かろうじて国を存立させていることから起きているのだという点についても考えなければいけないというお話をされていた。私は,その話を伺っていて「幸せの国ブータン」という一辺倒のイメージでだけで,この国を問えることはできのいのだなということを痛感せられた。

津川さんからお話を伺ったあとは,研修メンバー全員が協力して,津川さんのお宅の料理人の方や奥さんの調理の手伝いをして,生唐辛子を使ったジャガイモとチーズの煮込み「ケワダツィ」をつくったり,研修メンバーが買ってきた松茸を焼いたりした。そして料理ができたあとは,皆でアルコールで乾杯をして,なごやかな雰囲気になった中で,あらためて津川さんのお話を伺った。

ところで途中からこの会に合流したJICAの青年協力隊の小松隆さんという建築分野の専門の方からは,個人的には「地理的」で大変興味深い話を聞くことができた。それは近年,ブータンで問題となっている氷河湖決壊洪水のリスク上昇のことと,ブータンのもつ高山気候に対応した伝統建築のことだった。つまりまず氷河湖決壊降水がブータンで知られるようになったのは,17年前に恐らく氷河湖決壊洪水ではないかとされる洪水でブナカというティンプーの北東にある都市の「プナカ・ゾン」という城塞建築が流されたことがきっかけだったのだという。以来,各地で同様の洪水被害がみられるようになり,パロの空港などでも年1回ほどのペースで浸水被害がでていたり,川沿いの田が流れるといったことが起こるようになってきているのだという。小松さんは現在,建築の専門家として河川の護岸工事に携っているのだということだった。またブータンの伝統建築は,木造二階建で二階の梁が大きく張り出した入母屋造りになり,屋根と二階部分に大きな隙間があるのが特徴である。また建築素材が一階部分が土で,二階部分が木になっているのが特徴である(屋根は藁ぶき)。これらの点に関して,まず入母屋造りは世界的には,中国南部などにも多いが,この地域がモンスーンによって大量に雨が降るために,その雨を四方に分散させる必要から入母屋が多くなったのではないかとのことだった。また二階と屋根の間に隙間があるのは,標高が高くて気温は涼しいもの日差しが強いためその対応なのではないかとのことだった。またこうした伝統建築については,一階は家畜小屋や穀物倉庫,二階は人間の居住空間となっているが,一階は土でできているため,コンクリートなどと比べると地震などにはもろくなっているとのことだった。

 

8月8日① タンゴ僧院訪問(ティンプー)

 

 

タンゴ僧院訪問

 

 

ティンプー郊外,北に車で約40分いった標高3500mの山寺であるタンゴ僧院を訪れた。僧院のはるか下にある駐車場で車を降りて山道を歩っていったが酸素が薄く,途中おおきなストゥーパの所で休憩をとって僧院に向かった。山門までくるとえんじ色の法衣をまとった沢山の修行僧が出迎えてくれた。ここは、高等仏教学校(大学)として使われており,若い修行僧が数多く勉学に励んでいるのだという。中の写真は撮影禁止だったので写真はないが,山門をはじめ建物全体には極彩色の美しい仏教絵画と思われる壁画があり,欄干の彫刻もとても綺麗だった。研修メンバー全員が大きな仏殿に通されると,そこには沢山の僧侶が入ってきた。ブータン人のガイドさんは興奮して,その中の若い青年が「活仏」だと興奮していた。なかなかお会いすることはできない方とのことだった。私たちは全員で手をあわせ挨拶をさせていただいた。仏間を出ると,美しい回廊に囲まれた大きな中庭があり,そこには沢山の蝋燭が立てられていた。

 

8月8日② クズチェン小中学校訪問(ティンプー) 

 

 

クズチェン小中学校訪問・現地で地理授業

 

 

クズチェン小中学校はティンプー郊外にある小中学校である。ここでは小学校と中学校で地理,数学など様々な授業を参観させていただいた。地理では,地球儀を使った世界の国々ついての授業をしていた。指名した生徒が立って回答するのは日本と同じスタイルである。

またここでは,研修メンバーのそれぞれが英語で特別授業を行った。時間はガセロ小中学校でやった特別授業よりも大幅に長く,メンバー一人一人が個性のある授業をしていた。私も日本からもっていった地図を使って,生徒に「世界の国の数や人口,世界の国際化について」と「メンタルマップを描く」授業を行った。

メンバー全員の助けを借りながら,なんとか英語での地理授業をやりきった。用意していった英語のセリフは,子ども達の協力と,事前に長野県の英語の先生にみていただいたお陰で,思った以上にうまくいった。

クズチェン小中学校ではパソコン教室もみせていただいた。長机には全部で10台に満たない数のパソコンが置かれていた。このパソコンは,発展途上国の貧しい子どもたちへのパソコン提供を世界規模で目指す米非営利団体の努力から,中国の常熟にある工場で2007年から大量生産がはじまった、子ども向け低価格ノートパソコン「XO」である。その米非営利団体は、One Laptop Per Child(OLPC、「子どもたち一人ひとりに1台のノートパソコンを」の意)と呼ばれる,米マサチューセッツ工科大学のニコラス・ネグロポンテ教授が2005年に立ち上げたもの。

この「XO」は,過酷な環境でも使用できる頑丈なノートパソコンで,消費電力は従来の標準的ノートパソコンの10分の1以下。無料で使用できるオープンソースのOS上で動作する。充電方式はソーラー充電または手回し充電のどちらかを選べる。ビデオとカメラも搭載し,ワイヤレスでインターネットへの接続も可能となっている。教室内の「XO」には,生徒たちが自分で撮影したと思われるビデオが映し出されていた。

一見すると「情報環境が整っていない」と考えてしまいがちなのだが,よく考えると,こうした「XO」が導入されているのも首都・ティンプーの学校だからできたことなのだとも考えられる。これでも情報環境はととのっているほうと見たほうが妥当なのではないかと思う。

この学校では最後に,一日の授業の終わった後の「礼拝」の様子も参観させていただいた。チベット仏教を国教としているブータンらしさを感じる貴重な体験であった。

 

8月9日① ティンプーの公設市場散策(ティンプー)

 

 

ティンプーの公設市場散策

 

 

朝の早い時間帯をつかって,研修メンバーの長谷川さんと公設市場に散策に出かけた。さすが首都の台所だけあって品揃えが豊かだった。ここにはたまたま家族とブータンにきていた私の学校の同僚で元・青年海外協力隊員の女性とも偶然合う事ができた。

 

8月9日② ブータン教育省で研修報告(ティンプー)

 

 

ブータン教育省で研修報告

 

 

ブータン教育省では研修メンバー全員で研修報告を英文のパワーポイントを使いながら行った。全員が分担しながら英語で報告をした。まずは今回の「研修の概要」を話した。つまりまずはパロ,ティンプー,ワンデュポダンといった3つの都市を拠点にして行われた今回の研修についてお話した。 まず「パロ」で西岡チョルデンや,多くの農業関連施設を見学したり,ホームスティで一般的な農家の生活を体験したり,教育大学を見学したり,マーケットや町の散策をしたことをお話した。またティンブーではJICA事務所やBhutan政府の機関で,全体的な教育制度や,GNHのレクチャーを受けたり,メメラカのゴミ処分場,病院や,タンゴ僧院と,2つの学校を訪問したことをお話した。そしてワンディポダンで,山奥の村にあるガセロ小中学校を訪問したことをお話した。 そして次に,私たちが今回の研修を通して,「いったい何を感じ,何を学んだのか」を4つの視点で報告した。 4つの視点とは,ここにあるようなものです。Bhutanの人々との交流,教育, 農業,伝統と近代化である。そうした中で,ブータンの人々がさまざまな課題に対して前向きに向き合っていると感じたことを伝えさせていただいた。

また最後に今回の研修のために,ブータン政府をはじめ関係各機関の方々から,様々な配慮をしていただいたことについて改めて感謝の気持ちを伝えた。

報告を終えたあと,今回の研修で大変お世話になったペマさんと記念写真をとらせていただいた。

 

8月9日③ JICA事務所で研修報告(ティンプー) 

 

 

JICA事務所で研修報告

 


JICA事務所でも,教育省と同様に研修メンバー全員で研修報告を英文のパワーポイントを使いながら行った。もちろん日本語で報告をした。やはり今回の研修のために,事前に様々な準備をしたり,研修中様々な配慮をしていただいたことに改めて感謝の気持ちを伝えた。

 

8月9日④ メモリアルチョルデンを訪問(ティンプー)

 

 

メモリアルチョルデンを訪問

 

 

JICA事務所を訪問したあとメンバー全員で,首都ティンプーの街のシンボルでもある,メモリアルチョルデンという白くて大きなチョルデン(仏塔)を訪れた。第3代ジグミ・ドルジ・ウォンチュク国王没後の1974年に国家事業として第3代国王を記念する意味も込めて造られたものである。仏塔は3階建てで、内部に描かれた美しい仏画や仏像は必見。特に中央に納められた憤怒尊の形をした歓喜仏の立体マンダラがよく知られている。

この日も,参拝者が絶えることはなく,一日中仏塔の手前にある大きなマニ車を廻しながら観音菩薩の真言「オム・マニ・ぺメ・フム」を唱えたり,仏塔の周りを右回りに歩きながら参拝している人や,五体投地をする敬虔な参拝者が大勢いた。

改めてブータンがチベット仏教を国教とする国なのだなと感じた。

 

8月9日⑤ 津川専門家との食事会(ティンプー)

 

 

津川専門家との食事会

 

 

教育省とJICA事務所での研修報告が終わった後,津川専門家おすすめのティンプーの食堂で食事会をした。研修中の想い出話で盛り上がり最後,研修メンバー全員と記念写真を撮影した。お店のテレビにはドラえもんがかかっていた。またお店からかえる時,近くに「24」というコンビニがあった。

 

8月9日⑥ JICA研修メンバーとの懇親会(ティンプー)

 

 

JICA研修メンバーとの懇親会

 

 

ブータン最後の夜,ガイドのぺマさんが案内してくれたティンプーのお店で,みんなでお酒をいただきながら懇親会をした。飲んだお酒自体はそれほど多くなかった。ただ前の日は,研修報告のパワーポイントをつくるためほとんど睡眠時間がとれていなかったためと,ティンプーが標高が高くて酸素が薄いためお酒に飲まれてしまったので,途中足がおぼつかなくなり,お店で転がってしまったり,寝てしまい,研修メンバーのみなさんには迷惑をおかけした。ほんとにごめんなさい。

 

8月10日  帰国と研修のまとめ

 

 

帰国と研修のまとめ

 

 

そして山中の空港・パロ空港から飛び立つ飛行機で,ブータンから無事日本への帰路についた。

途中、バンコクの空港でトランジットしたが,ブータンよりも近代的な感じがした。

私が日本の羽田空港についてまっさきにいったのは,お蕎麦屋さんで,お蕎麦をいただいた。考えたら研修中,ずっとエマダツィなど唐辛子料理が日常になっていたようだ。

しかし研修が終わって今回の研修旅行を振り返ると,研修はかなり強行軍であって肉体的にハードだった。最後の教育省とJICA事務所の訪問の前日には,報告のためのパワーポイント作成でほとんど眠れなかった。

ただし,学ぶべき点は山ほどあった。「幸せの国」と言われるようになって久しいブータンが本当に「幸せの国」なのかを自分の目でみてこようとおもって私は今回の研修したが,貧困に根ざす食糧問題・医療問題や民族問題などの課題,急激な都市化・現代化にともなうゴミ問題・スラム形成・退廃的な思想拡大といった課題,大国の中国とインドにはさまれた複雑な政治環の中でどのように生き残っていくのかの課題など,私が想像していた以上の様々な課題をかかえる国であった。ただそれだけでなく,チベット仏教を精神的な支えとすることで豊かな精神性を持つ人々が多いことも多いと実感することができた。

最後に,研修中,夏休みだったのにどこにも連れて行かず家族サービスができなかった家族に謹んでお詫びを申し上げたい。

 


inserted by FC2 system